2、江戸相撲に入門
千曲川の対岸の長瀬村に上原源五右衛門という庄屋がいた。その庄屋は、学問好きで寺子屋師匠をする傍ら、石尊の辻をつくって相撲好きな若者の世話にも余念がなかった。このことを知った太郎吉は、上原源五右衛門方に寄食して学と技を磨いた。折しも、江戸相撲の浦風林右衛門一行が地方巡業で上原家を訪れた。その時、太郎吉は、浦風に相撲とりとしての才幹を見込まれ、天明四年(1784)十七才で出府、江戸相撲に入ることとなった。恵まれた天与の素質に加えて、熱心に稽古にはげんだ甲斐あって、寛政二年(1790)には関脇に付出され優勝した。完成七年には大関に昇進し、実に十六年二十七場所の長きにわたり大関の栄位を保持し、九割六分二厘という古今最高の勝率をあげた。
雷電には禁じられた手が三つあった。「張り手」「かんぬき」「突っ張り」である。これを使えば必ず相手に怪我をさせるからというので封じられた。なお、雷電は文化八年(1811)惜しまれつつ引退した。